2013年10月22日火曜日

親子のためのワークショップ「ねえお母さん、思い出の風景おしえてよ」





あれれ、気付いたら福岡展も大牟田展も「始まりました」ってないですね。しまったしまった。ちゃんと始まってますよ(笑

さて、福岡ケンビでは10月20日、九州女子大で幼児教育を学んでいる学生たちによるワークショップを行いました。

それが、親子のためのワークショップ「ねえお母さん、思い出の風景おしえてよ」。

今回の江上茂雄展@福岡ケンビは、「郷土の美術をみる・しる・まなぶ」というシリーズの第5回目を特別編として開催していますが、その趣旨のひとつが「大人と子どもがときには一緒に、ときには別々に美術と向き合う場と時間をつくり出す」ということ。

ですから会場は肩肘張らないフランクな雰囲気(でも鑑賞の深みはたっぷりと!)ですし、関連イベントも意識的にいろいろな層に向けて発信しています。今回の「親子のためのWS」もその大切な試みでした。

そのことに理解と共感を示し、「いっしょにやりましょう」と言ってくださったのが九州女子大の谷口幹也さん。彼のゼミの一環としてワークショップの企画・運営に取り組んでくださいました。結果、この展覧会が学生たちへの教育的な機会としても活用してもらうことができたのもありがたいことでした。

学生たちは比較的早い段階でケンビに足を運び、実際に江上さんの作品を見てくれています。そのうえで彼女たちがワークショップで大切にしようと話し合ったこと、それが「お母さんの膝の上で抱っこされているような安心感と居心地の良さをつくる」ということでした。

それは、わたしにとってとてもうれしい出来事。

当日参加してくださった親子は二組。はじめはちょっと緊張気味で人見知りしていた子どもたちもそのうちぐんぐん学生たちになじんでいって、どんどん笑顔があふれていきました。

よし、美術館を飛び出して、公園でお絵かきしちゃおう!

















学生たちのスキルは、素人の私から見てもまだまだつたないものでしたが、彼女たちのひたむきさとやさしさはちゃんと子どもたちにも伝わり、お母さんやお父さんたちにも伝わり、主催者も参加者もいっしょになってステキな時間をつくろうとしてくれたところに、ワークショップの原点のようなものを見ることができました。



そして最後はみんなとびきりの笑顔で、バイバイ!またね! (たけ)


2013年10月7日月曜日

【記事紹介】日本経済新聞10月3日(夕刊)

ご紹介がワンテンポ遅れていますが、ご了承を。福岡展の担当である(たけ)の拙文を新聞掲載いただきました。


2013年10月3日木曜日

破格の紹介記事

まもなくの5日から福岡展はじまりますゆえ、ただいま鋭意展示作業中。そんなナイスタイミングで写真家・編集者として知られるあの都築響一さんが、ご自身のメールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(2013/10/02号 vol.085)にて江上茂雄さんを紹介する破格の特集を組んでくださいました。

お聞きしたら「引用コピペ上等!」ということで転載も歓迎とのこと。

てことで、ふふふ、みなさんにもご紹介をば。

都築さん、ありがとうございました!



art百年の孤独
 ――101歳の現役アマチュア画家・江上茂雄の画業


「べにいろの雲」1964年前後、クレヨン
その名前も知らなければ、作品も知らない。でも、たまたま見た一枚の作品写真が妙に気になって、頭の隅にこびりついて、そのもやもやがだんだん大きくなって、どうしようもなくなる――そういう出会いが、ときどきある。だれかがネットに上げた江上茂雄さんの絵が、僕にとって久しぶりのそんなもやもやだった。

江上茂雄さんは熊本県荒尾市に住む、なんと101歳の現役画家、それもアマチュア画家だ。荒尾に隣接する大牟田市と、田川市で小さな展覧会が開かれていて、さらに10月からは福岡県立美術館で、アマチュア画家には異例の大規模な個展が開かれるという。

「雪降る」1960年前後、クレパス
なんだか気になって検索してみると、その日の夜に福岡の小さなアートスペースで、江上茂雄さんの息子さんふたりによるトークイベントがあると知り、あわてて羽田に向かった。浜松町からモノレールに乗っているあいだに携帯で飛行機の座席を予約し、ネットを見た3時間後には福岡のアートスペース・テトラという場所の、固い椅子に座っていた。

その場で建築家の長男・徹さんと画家の次男・計太さんにご挨拶し、同じテトラで2010年に開かれた、福岡での初めての江上茂雄展でその存在を知り、展覧会を企画した学芸員の竹口浩司さんと相談し、それから2週間後の先週には、もういちど福岡に飛んで、江上茂雄さんの荒尾のご自宅を訪ねることができた。いまこうして思い返してみると、なにか大きな力が僕を引っ張りまわして、この記事を作らせてくれた気がする。

江上茂雄さん、現在101歳
2010年の福岡展にあわせて、私家版として発行された(300部)『江上茂雄作品集』の冒頭に掲げられた序文で、江上さんはこんなふうに書いている(抜粋)――
私の絵暦

母はある店先に入った。背中にくくりつけられていた私は店先の飾棚の絵を見た。それはミレーの「晩鐘」だった。これが私と絵との初めての出会いだった。

学童の図画教程はいわゆる写生の時代。写生といっても、目の前の物をよく見てしっかりその生命感を写しとるという、物のリアルから心のワビサビまでの厳しい長い道だった。ぼんやり者の私もその写生から始まった。

母子家庭で昭和二年高等小学校卒業後、三井三池鉱業建築課就職、昭和四七年退職までの四五年間が私の日曜画家の時代だった。実生活者としては私一人の給料で七人家族を養った。

その後、退職から今日までの三八年間は「路傍の画家」と言われた。昭和五四年病気入院二ヵ月、退院後、本格的に水彩に変わる。



「壁の朝」1997年6月、水彩
水彩風景画は現地写生で一年三六五日、一日一枚(四つ切)、一月一日と台風の日以外無休で雨の日も描いた。

他との関係は一切なく、一人で描き、発表は個展だけ。静物も描いたが主として風景を、その風景も生まれ育ち、住み、生きた筑後、大牟田、荒尾の風景だけを描いた。

「本村の小道」1994年12月、水彩
私も日本人のはしくれ、「枯れる」というように終わりたいが、シメリケの多い私ですから「萎れる」というぐらいがおちだ。
隣の大牟田とともに、三井三池炭鉱の町としてかつては栄え、いまは大牟田と同じように静かに寂れている荒尾の、小高い丘の上に江上さんのお宅はあった。同じような一戸建てが並ぶなかで、息子の徹さんが設計したという江上さんの家は、屋根から伸びたアトリエの明かり取りが少しだけ目立っていた。

尖ったアトリエの明かり取りが印象的な家
「もうこんな歳ですから夏冬が、特に冬の寒さがこたえますねえ」と言いながら、101歳のいまでも毎日、午前と午後の2時間ほどを木版画の制作にあてている江上さん。家族が育ち、巣立っていったこの家で、いまもひとりで暮らし、絵を描く日々を過ごしている。

「万田山 ふもと」1983年7月、水彩
江上茂雄さんは明治45(1912)年、大牟田に隣接する山門郡(現・みやま市)に生まれた。「おまえは紙と鉛筆をやっておけばおとなしかった」と母・アキノさんに言われていたそうだが、12歳で父の茂三郎さんを失い母子家庭で育った茂雄さんにとって、お母さんの存在はそれからもかけがえなく大きなものだった。後年、定年退職と同時に第1回個展を大牟田のデパートで開催したのも、「なんとかお母さんが元気なうちに見せてやりたかったから」という。

居間にはお母さん奥さんの写真が並べて掲げられている


「母の赤きタンス 2」1932年前後、水彩
ちなみに1912年生まれというのがどんな年代かというと、サルヴァドール・ダリの8歳年下、フランシス・ベーコンの3歳年下、ウォーホルの16歳年上! ということになる。

アトリエの窓際には絵を描く場所が
江上さんが初めて絵の才能を認められたのは大正12(1923)年、11歳のときだった。新設された大牟田市内の小学校に転校した際に、新任の美術教師から絵を褒められ、目をかけられるようになったのがその始まり。当時は鉛筆、色鉛筆、クレヨンが主な画材だった(そのあと愛用するクレパスをサクラクレパスが開発・発売するのは1925年のこと)。

「習作」1927年前後、水彩


「いとこの家の庭」1931年前後、水彩
前述したように12歳で父をなくし、13歳で現在の中学にあたる高等小学校に入学するが、15歳で卒業するとすぐに三井三池鉱業所に入社。建築課で働きながら、日曜画家として絵を描く生活が始まった。
そのころはなんといっても石炭増産の時代でしたから、炭鉱も活気がありました。ただ自分がいたのは建築設計課というところで、ほとんどは大学出の建築士さんですが、私は学歴がないので、仕事は建物の整理でした。ひとつひとつの建物が図面どおりに建てられているか調べたり、使われ方を記録したり。建物ひとつずつに1枚のカードを作って、管理する仕事ですね。部下もいない、三井三池でたったひとりの、特殊な仕事でした。ま、おもしろくはないから(笑)、人気はなかったんですが、ひとりでできたので、私には向いてたんですね。会社を出たら、あとは自分の時間になれましたし。

そういえばちょうど就職したころですから、15~16歳のときに初めてピカソやブラックを見て、子供ごころにショックを受けて、いっとき描けなくなったことがありました。それまでは写生しておればいいということだったのが、キュビズムとかを知りまして。

それから戦争が始まって、終戦直後までは画材もないし、絵を描くどころじゃなかったです。それが昭和24年ごろから日本の国や、画壇がだんだん復興してくるのにあわせたように、自分でも「もういちどやるんだ」という気になっていきました。

「黄耀」1964年前後、クレパス


「海のくもり日II」1960年前後、クレヨン


「公園の夏」1971年、クレパス


「石の朝」1964年前後、クレヨン


「赤の玩具」1968年頃、クレヨン
けっきょく私がこんなふうに絵を描いてきたのは、まず貧乏だったことがあります。小遣い銭もないから油絵の具のような高価な画材を使えなくて、それでクレヨンやクレパスや色鉛筆を使わざるを得なかった。絵の先生につくこともできなかった。自分の稼ぎだけで7人家族を養わなくてはならなかったし。だから美術雑誌を購読するぐらいが、唯一の贅沢でした。

昭和13年(26歳)から43年(56歳)ごろまで続けられた、鉛筆と水彩による植物細密素描『私の鎮魂花譜』より 1938~1968年頃、鉛筆・水彩
そして学歴がなかったことと、酒が飲めなかったこと。それで普通の人付き合いができなかったんです。遊びごとができない。それが、「オレひとりでやっていくんだ」という気持ちになったんでしょうねえ。なので退職してから大牟田のデパートでは何度か展覧会を開きましたが、公募展とか市の文化祭とか、そういう機会にはいっさい出品しないできました。ぜんぶひとりでやると決めてたから。人間ぎらいなのかもしれないです・・・(笑)。

路傍の画家として、町の人々にはおなじみの存在となっていった
昭和47(1972)年に定年退職すると、「それまで住んでた社宅を出なくちゃならないので」、翌年に荒尾に新居を建てて転居。それまでの「日曜画家」時代から、現場写生の「路傍の画家」時代が始まった。ご本人の言葉どおり、元旦と台風の日をのぞいた毎日、自宅から1~2時間歩いた場所で、水彩画を1枚仕上げて帰ってくる。平成21(2009)年に体力の衰えから、屋外での水彩画制作をやめるまで、およそ40年間の制作の日々で、水彩画だけでも約1万枚が手元に残っているという。

アトリエにはスケッチの場所や内容ごとに分かれた作品収納棚が。いまは展覧会に貸し出されているために空きが目立つが、ふだんはぎっしり作品が詰まっている
それまではクレヨン、クレパスをおもに使ってたんですが、脳血栓で入院してから(1979年、67歳)、水彩に切り替えました。クレヨンやクレパスは、力がいるんです。滑べらせるだけじゃあ線はつくけれど、色はつかないから。水彩は力がいらないからね。

いまはもうなかなか外にも出れないですから、家で木版をやってます。むかし水彩で描いた風景を、木版にする。それなら家でできますから。

でも私の木版はダメなんです。本来、木版向きの人間じゃない。木版というのは単純化していく作業なんですが、私はむしろ増やしちゃうんです。だから木版らしくない。でも、家の中では木版ぐらいしかできないので。

アトリエで版画を見せてくれた


彫刻刀やバレンなど、版画の道具を収めた箱






『私の筑後路』より、1973年以降、木版画
11歳のころから数えれば90年(!)にわたる画業のなかで、江上さんはほとんど身近な風景ばかりを描いてきた。
たまに描けなくなって、伊豆の踊子みたいに会社の休みを使って三隅半島を巡り歩いたりもしましたが、うまくいきませんでした。このあたりの画家はよく阿蘇山を描いたりもしますが、それも一枚もない。私は大牟田と荒尾だけ、それでもう百年です(笑)。

「暮れ時の堤防」1966年頃、クレヨン
自然や風景が多いのは・・・自然はつねに優しいから。貧乏人にも金持ちにも、同じ顔を見せてくれる。でも人間には差別がありますでしょ。あんまりそんなこと言うもんじゃないでしょうが・・・それで風景の中にのめりこんだんですね。街を描くのでもゴミ捨て場とか、古ドラム缶のある風景とか、洗濯物が干してある風景とか、ちょっと変わった場所が多くて。やっぱり自分が貧しい環境で育ったことから、華々しい美しさよりも、少し沈んだもののほうに惹かれてしまうんですね。

「くもり日の干しもの」1972年前後、クレヨン


「さんま」1969年頃、クレパス


「しぐるる日」1970年前後、クレヨン・クレパス


「線路敷の夕暮れ」1950年前後、クレパス


「角のタバコ屋」2007年12月、水彩


「県道の朝」200年2月


「師走の屋並」2008年12月、水彩
作品を見ればわかるように、江上茂雄さんの絵は年代によって画風を少しずつ変化させながらも、ある意味で絵画の王道を歩んできた。けっしてアウトサイダー・アートではない。絵の先生もいなければ、高級な画材も使えないという厳しい環境の中で、東京から送られてくる美術雑誌などで学ぶ美術界の動向を貪欲に吸収し、自分なりに消化して作品に仕上げてきた。退職後のわずかな個展の機会を除けば、だれに見せようとも、だれの評価も受けようともしないまま。



アトリエの書棚にはボロボロになるまで読み込まれた画集や美術雑誌のコレクションが並んでいた


「夕立の後」1962年頃、クレパス


「落陽の刻」1950年前後、クレパス


昭和34年(47歳)から47年(60歳)ごろまで続けられた、実験的なシリーズ『私の手と心の抄』より、1960年代、クレパス・水彩


『私の手と心の抄』より、1960年代、水彩・クレパス・墨汁


『私の手と心の抄』より、1960年代、水彩・色鉛筆
これだけ年齢を重ねて、子どもたちはもちろん一緒に暮らそうと誘うのだが、「絵を描くにはひとりがいいから、ちょっと待っててくれと言ってるうちに、こんな歳になってしまいました」と笑う、執念とも呼びたい絵にかける思いの強度。
もう眼も、手足もよく動かなくなったけど、それでも毎日、絵をやってないと寂しい、情けない気持ちになって、落ち込むんです。絵を描いておれば飽きることがないし。それで毎日、これが最後の作品になるかもしれないと思いながら、つくってるんです。

緑豊かな庭に面した一角で


「たまに買い物に行きますと、なかなか細かいお金を探せないものだから、つい札を出してしまって、細かいお釣りが溜まっちゃうんです」


「夏の終わり」2002年9月


「夏木立」2002年7月、水彩
60歳で得た画友に向けた手紙が、作品集の巻末に掲載されていた。その抜粋を最後に読んでほしい。3年前、98歳で書かれた一文だ――。
毎晩二四時にスイッチを押すだけに炊飯の
用意をして寝につきますが、あしたの朝が
キット来ると思っているのでしょうか?
午前中二時間、午後も二時間位、ゲンミツな
言葉では外に出ないのですから、「路傍の画家」
とは言えませんが、延長の「木版」をやっています。
これも「サーひと仕事終わった」たった一つの楽しみ
コーヒーを飲む「コージツ」かもしれません。
くたびれてチョッと横になると眠っています。
ほんの二、三分かと思いますが。

「切り通し 六月」2005年6月、水彩


「倉掛 七月」1994年7月、水彩


「炭坑線のみえる風景」1991年5月、水彩
これまでたくさんの取材を通して、たくさんのお年寄りと出会ってきた。ものすごいお金持ちもいれば、ものすごい貧乏人もいた。見るからにハッピーなひとも、哀しいひともいた。そうして思い至ったのは、前にも書いたかもしれないが、人生の「勝ち組」と「負け組」というのはけっきょく、財産でも名声でもなんでもない、死ぬ5秒前に「あ~、おもしろかった」と言えるかどうかだという、単純な真実だった。どんなにカネや部下や大家族や奴隷に囲まれても、「ほんとは音楽やりたかったのに」とか「絵を描いてたかった」とか、最後の瞬間に頭に浮かんでしまったら、それは「負けの人生」だ。

僕らはいつも美術館に、「いい作品」を見に行く。でも今回は、そうでなくてもいい。そこにあるのは、もちろんいい作品でもあるけれど、それ以上に静かに輝く「いい人生」なのだから。

「枯野」1983年2月、水彩
福岡県立美術館の江上茂雄展は10月5日から。同時開催のうち、田川市立美術館での展示はすでに終了してしまったが、大牟田市での展覧会は12月初めまで開催中。このメルマガでも過去に何度か取り上げた大牟田の街を、江上さんの描いた風景を眺めたあとで歩き直すのも楽しそうだ。
『江上茂雄 風ノ影、絵ノ奥ノ光』
@福岡県立美術館
10月5日~11月10日
http://fukuoka-kenbi.jp/


@大牟田市立三池カルタ・歴史資料館
10月1日~12月8日
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